NPO法人霞ヶ浦アカデミーの会報「海夫通信」46号を2024年11月に発行しました。
2008年の設立から発行しており、今回で46号となりました。以下にコンテンツの一部を紹介いたします。詳細はリンクのPDFファイルをご覧ください(画像をクリック!)。
寄稿:霞ヶ浦周航歌
寄稿者:前ラクスマリーナ専務 秋元 昭臣
「霞ヶ浦周航歌」を歌う「ミュージックツーリズム」でサイクリングやドライブ、ウォーキング、演奏会等の地域活性化と霞ヶ浦の水環境改善に寄与したいと考えました。
霞ヶ浦総合公園の霞浦の湯2階ロビーに「霞ケ浦周航歌」赤根祥道の額が掲示されており、歩崎公園サイクリングロード際には歌碑があります。
土浦中学ボート部の父から霞ヶ浦遠漕の話を聴き、子供会の水泳は夢の浮島へ、高校ヨット部では麻生や浮島へ。大学のバイトは浮島キャンプ場、友人と小型ヨットで霞ヶ浦から利根川を下り銚子大橋をくぐり太平洋を望む船旅を楽しみました。
ラクスマリーナ退職後一昨年は憧れの「ビワイチ」を走り「琵琶湖周航の歌資料館」に立ち寄り感慨深いものがありました。帰郷後「霞ヶ浦周航歌」のあることを知りました。他のサイクリングロードについて知りたく昨年は「しまなみ海道」今年は「九州日南海岸」を走ってきましたが、歌があるのはビワイチだけでした。そこでこの宝物を残せないかと活動を始めました(続きは本誌でお読みいただけます)
米寿の旅、無鹿
霞ヶ浦アカデミー監事 浜田篤信
無鹿
「無鹿」とは、遠藤周作晩年の短編の題名である。東京から宮崎市に出張していた主人公加治は、宮崎市の小料理屋で隣会わせた男と飲み交わすことになる。加治の「あなたも宮崎の方ですか」との問いに、男は「はい。無鹿の出身です」と答え、無鹿を以下のように紹介する。「延岡んはずれで北川ちゅう川んそばにあっとです。—–無鹿ちゅう所は官軍と西郷隆盛との決戦場だったちゃがね。西郷さんが最初、自分で一部隊、指揮して戦うと言うた場所ですき」。続けて「無鹿ちゅうはね、変な名前ですじゃろ。これは、ラテン語で音楽ちゅうことじゃが。英語のミュージック」。さらに以下を紹介する。戦国大名大友宗麟が島津藩との抗争の際に部下の進めにしたがい無鹿に立ち寄り、この地のあまりの清らかさに見せられる。そして無鹿を神の地とし教会を建立、欠かさず礼拝に参加したという。続けて「じゃけん、宗麟が無鹿に移り住んだばっかりん時、薩摩の島津義弘かい攻められって、大負けしてしもて、逃げてしもたってす。西郷も大友宗麟もそれぞれん夢破れたのが無鹿。今は何もねえき。北川という川だけが昔んのまま流れちょとるですき」。
北川
北川は幹線水路延長51キロの五ヶ瀬川支川であるが、知る人ぞ知る全国屈指の清流である。2000~2007年に実施された九州大学(江口他2008)の魚類調査では、52科100属140種が確認されている。また、2004年の河川学術生態系研究会北川研究グループの調査では165種が確認されている。それまでの確認種の最大は四万十川の161種であり、北川の165種は、これを上回る国内最高である(続きは本誌でお読みいただけます)。